tsshare’s diary

日々思ったことをあれやこれや・・・・・・・

日馬富士引退 横綱としての責任を取るために っていうけど、なんだか違和感が・・・

 

横綱日馬富士が引退を表明した。

 

伊勢ケ浜親方との引退会見は、異様な緊張感の中で行われていた。この会見内容は、どの立場で聞くかによって、さまざまであると思う。

(個人的には、この会見の異様さが今の相撲協会の体質を表しているのだと思う)

 

ここでは、会見内容ではなく、今回の一連の騒動の末に、日馬富士横綱としての責任を取るために引退した、という姿勢について考えてみたい。

 

 

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責任という言葉は、普段でもよく耳にする言葉の一つである。しかし、責任とは何かと改めて問われると、説明にするのに苦労する言葉でもある。

 

責任をもって仕事をするといえば、この時の責任の意味は、「期限内に、求められる質・量の成果物を提出する」という事だと思う。

 

しかし、今回問われているのは、責任を取るという場合の責任の意味である。これにつては、なかなかいい答えが簡単には見つからない。

 

 

ところで、責任に関し面白い言葉を見つけた。

「責任と原因と結果は違う」

である。

 

個人的に非常に合点がいったので自分なりに説明したい。

 

ここでの、原因と結果は物理や化学での現象を指しているわけではないし、倫理学で言うような、AならばB,BならばC、ならばAならばCと言った規則的な事とも違う。

日常の社会活動の中での一場面を取り出して、論理的な精密性ではなく、私たちの感覚による理解の上で成立するような関係である。

 

例を挙げてみる。

ここで、前東京都知事である舛添要一氏に登場いただく。

 

舛添氏は、昨年東京都知事を辞任した。

理由は政治資金規正法に関することなどいろいろあるが、本質は舛添氏自身の資質による点が一番である。

つまり、舛添氏が東京都知事としての資質が欠損していたため、都民さらには日本国民が、都知事職の遂行にNOを突き付けたのである。

舛添氏の都知事辞職は、決して政治資金規正法に違反して行われたのではない。

舛添氏の能力が不適切であるという原因により、知事辞職という結果につながっているのである。舛添氏は、自らの資質の欠損の責任を取って知事を辞職したのではない。

 

この一連の騒動では、舛添氏は何らかの責任を果たしたわけではない。

 

(舛添氏辞任騒動に関し、その底にある滑稽さの原因はここにある。まず舛添氏が、責任を取ろうと思うなら、都民に対し自らの能力の不足・知事としての資質の欠陥を認める事、つまり「私はバカでした」と認めたうえで謝罪する事から始めなければ、責任を取るための土俵に上がる事も出来ない。もちろん舛添氏がそのような謝罪をするはずもないのは周知とおりである)

 

舛添氏は責任を果たすため、自らの知事給与を削減して知事職の遂行を主張したが、根本的な問題が本人の資質、つまり能力の不足に起因している以上、その提案が受け入れられないのは当然であろう。

 

このように、辞職という一事をもって、それが直ちに責任を取る行為につながるのかどうかは、それぞれの状況について考察する必要がある。

 

日馬富士の暴行事件を受け、横綱審議委員会は厳しい処分を下さなければならないとの見解を発表している。相撲協会は、警察の捜査が済み次第、日馬富士に対し角界からの退去を命じるとの見方もされている。

この状況で行けば、日馬富士の引退はいずれ処分として下されるであろう。

 

つまり日馬富士の引退は、日馬富士が暴行を働いたので相撲界を馘首されたという原因と結果の関係であり、責任とは全く関係の無い事とも見ることができる。

将来、相撲界の歴史では、日馬富士は暴行事件を起こして協会からの処分により角界から退いたと記されるであろう。

 

(余談ではあるが、相撲協会日馬富士に対し、休場程度の処分を下せば、日馬富士の引退表明が横綱として責任を果たしたとの意味を成すことも可能である。)

 

日馬富士に対し、今後刑事処分が下され、その後協会の処分が下される。貴ノ岩関に対しては、今後民事的な処分が下されるかもしれない。(貴ノ岩関が日馬富士に対し民事訴訟を起こした場合)

これらの処分を受けることは、決して横綱としての責任を取る事ではない。相撲界に限らず、法治国家日本で行われている社会的な規則である。個々人としての責任云々を言う前の強制力を持った処分である。

 

以上のように考えるとき、日馬富士が言う 横綱としての責任を取る とはどうすればよいのだろう。

正直、非常に難しい問題であると思う。

自ら責任を取ると言う事は、その問題をもしかしたら一生抱え込み、向き合うことになるのかもしれない。

(舛添氏のように、責任を感じることが無ければ、今のようにメディアへの登場が可能である)

 

相撲は日本の国技であり、相撲協会は相撲道を掲載している。この相撲道に立脚して、今回の騒動に対し責任ある行動を示すことができれば、我々国民もまた、得るものがあるのではないだろうか。

 

今の日本で、法律や組織の規則といった強制力のある処罰を受ける他に、自ら責任を取ることができるのであろうか、あるいは必要とされ求められているのであろうか。