tsshare’s diary

日々思ったことをあれやこれや・・・・・・・

最近の不倫報道からみる「うそ」について

最近、連日のように芸能人や代議士の不倫報道が続いている。彼ら、あるいは彼女らの会見を見ても、全員が本当の事を語っているとは思われない事が多い。それは嘘だろう、そう思わせるものも少なくない。

扉の向こうで行われたことは当事者にしかわからない事で、どれほどこちらが疑問を感じようとも、それを確かめる術はないのが一般的である。そのような状況の中で、彼ら、彼女らを嘘つき呼ばわりするのは一方的ではあるが、中には後日嘘がばれた事例もあるので、話しを続ける。f:id:tsshare:20170918110657j:plain

嘘をついてはいけない、とは子供のころから教えられる。嘘というのは人として行ってはならない行為の一つである、と言う事を学ぶ。しかし、ドイツの哲学者カントが述べるように、嘘は絶対悪であるとは思ってはいない。「嘘も方便」という言葉もあるように、相手に対し良好な結果をもたらす嘘であれば社会通念上、認められている。

つまり、嘘というのは相手をだましたり、あるいは傷つけたりといった場合にのみ悪となる。嘘をつくという行為よりも、その結果により判断されるものと、僕たちは捉えているのではないだろうか。

不倫は犯罪行為ではない。互いの伴侶や家庭を当事者としたプライベートな問題である。この当事者間で真摯にそして誠実に対応すべき問題である。記者会見は、代議士にとっては国民、支持者、支援者への、そして芸能人にとってはファンへの説明責任の履行である。

以上を踏まえて、不倫当事者の嘘について考えてみる。

犯罪ではない不倫行為を認める代償は非常に大きなものである。代議士にとっては辞職であり、芸能人にとってはテレビ出演の自粛につながる。彼らの生活の糧を奪われ結果となる。さらに重要なことは、彼ら個人の問題ではない事である。代議士であれば支持者やその組織を取り巻く様々な関係者の、そして芸能人にとても所属する企業だけでなく様々なスタッフの利益や利権につながっている事である。

不倫をしたものが、何事もなかったと言い切ることに何の躊躇も感じないのは、自分を含め関係者の利益を守るとの大義があるからである。この場合、嘘をつくあるいは真実を話さないという行為は、ほとんど負担を感じない。

これは、不倫に限った話ではなく、僕たちの生活一般に通じている。

嘘をつくことで自分たちの利益が守られ、一方で誰も傷つくものがいなければ、誰もが嘘をつくであろう。とすれば、嘘による利益と損失を計りにかけることも行われるのは当然である。

しかし、どのような場合であれ、「嘘つき」と呼ばれることは不名誉なことだと感じているのも確かである。